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2015年4月号

vol. 097

二番目の柵に気付けば

~そうか。自分はまだ柵の中にいたんだ。これさえ気付けば人は自ら歩き始める~

人は、生まれながらに、ある柵で囲まれた丸い円の中にいるらしい。
そしてある日、何かのキッカケで、その柵の外に出ることができる。
だが人は、そこがまだ、別の大きな柵の中であることに気が付かない。

今回は、少し宗教クサい話を取り上げたい。
ただし、私自身、誰かに説法ができるような分際ではない。
この話が、仕事に対する考え方に、非常に相通ずるものがあり、 ぜひとも紹介をしたくなった。

さて、自分がまだ若く、まだまだ無分別だった頃、
道端で、何の躊躇もなく、平気な顔で「空きカン」を捨てていたとしよう。
だが、大人になったある日、フっと気がついた。
「おいおい。オレは何てことをしてるんだ」と。
そして「空きカン」のポイ捨てを止めた。
さらに、通勤に使う駅までの道、人が捨てた「空きカン」を拾いを始めた。
誰のためでもない。自分の住む街のために。

そう。大人になって、過ちに気付いたのだ。
これが、生まれながらの「一つ目の柵」を出た瞬間だと思って欲しい。
実は、この柵には面白い仕掛けがある。
「柵の外」からは、かつて自分のいた「柵の中」が見渡せるようになっている。
だが「柵の中」からは一切、「柵の外」は見えないようになっている。
気付き、そして「柵の外」に出て初めて、そこに柵があったことを知る仕組みだ。
そして人は、次のステップへと進む。

駅までの道を行く人の多くは、依然、柵の中にいる。
その人達は、捨てられた「空きカン」を拾うどころか、
まだ平気で、自分の飲み終えた「空きカン」を捨てながら歩いている。
私は、柵の外からその光景を見るにつけ、無性に腹が立った。
「こらー!オレはここで空きカンを拾ってるんだぞ!」と。
なるほど。この怒りは、ごくごく自然な感情だろう。

そうなのだ。「柵の外」に出た人は、
「柵の中」にいる「まだ気付いていない人」を責め始めるのだ。
これが「一つ目の柵」を出た人が取る、必然の行動と言われている。
この経験は、きっと誰にでもある。
私自身、思い当たるフシは山ほどもある。

こんな例もあげてみよう。
若い頃、自分は親から言われて勉強をしてきたが、
ある日「勉強の大切さ」に気付き、自ら進んで勉強をし始めた。
そして、それに気付いた自分は、
今度は、イヤイヤ勉強する人を「ダメなヤツだ」と思い始めた。
自分も以前は、その「ダメなヤツ」の一人だったことも忘れて。
人は柵を出た瞬間、今度は「柵の中」を指差し、人を見下すようになる。
どうだろう。心当たりはないだろうか。

さて、ここまでなら誰にでもある人生経験だが、
面白いことに、人は、うまくすれば、
その次の「二つ目の柵」に気付くことがあるらしいのだ。

「一つ目の柵」から出て、人を責め立てていたとき、
ドンッと、背中に何かがぶつかった。
「何だ?」と手探りをすると、そこにもう一つ「柵」があるではないか。
「えっ?」と立ち止まる。
「自分はまだ、別の大きな柵の中にいるんだ…」と唖然とする。
「この柵の外には何があるのだ…」と。

そして、恐る恐る「二つ目の柵」の外に出る。
するとそこには、黙々と「空きカン」を拾う人々がいるではないか。
誰一人「空きカン」を捨てる人を責め立ててはいない。
目を疑った。そればかりか、
次々と捨てられる「空きカン」を、笑顔で拾い集めているのだ。

強い衝撃に打ちのめされた気がした。
全員が「空きカン」を拾ってる。だが、誰のために?
そう。人は誰のためでもなく、自分のために「空きカン」を拾っていたのだ。
誰も責めない。恩も売らない。見せびらかしもしない。なぜだ?
「自分のため」だからだ。

「一つ目の柵」を出て、得意気に、自分の行いに優越感を得て、
行動しない人を責め立て、見下していたことをここで初めて恥じるのである。
「二つ目の柵」に気が付いた瞬間、それが分かるのである。
そして「二つ目の柵」に気付いた人は、次はこう考えるのだろう。
「三つ目がある…」と。

そうして人は、次の「三つ目の柵」を目指し始める。
その行動とは、自分の姿を「一つ目の柵」の中にいる人達に見てもらい、
その人達に「柵」を気付かせる行動に他ならない。
言葉は禁物だ。
ひたすら自らの行動だけで、それだけで、人に気付かせるのである。
これが宗教で言う「修行」であり、
何重もの柵を越えたところにあるのが「達観」なのだ。

仏教だけではない。西洋の宗教も、中東の宗教もこれを説いている。
人は生涯をかけて、手探りの中で、次の柵を目指すようになっている。
世にあまたある宗教の本質が、ここにある。

さて、企業の中の人の営みも、この教義に倣っているのかもしれない。
「誰のために仕事をするのか」を突き詰めていけば、
それは「自分のため」という「達観」に到達をするのかもしれない。
何十年も仕事と向かう中、何重もの柵が用意され、
それを超えるべく、人は成長を重ね、そして「達観」に向かっていく。

我々「大人」と呼ばれる人間は「二つ目の柵」の近くにいるはずだ。
我々は、我々の無言の行動によって、
「一つ目の柵」の中にいる若者を、導かなければならない。
誰のためでもない。自分のためにだ。

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 社長 谷洋の独り言ブログ 日々是好日