相手十分にさせない相撲
~大相撲にみる「相手の力を殺げば自分よりも強い相手にも勝ててしまう」という不思議な「理」~
自分よりも強い相手に勝つためには、相手以上に強くならねばならないのだろうか。
いや、そうとは言えない。相手の力を殺(そ)げばいいのだ。そうすれば勝てる。
これは、当り前のような理屈だが、実は、それに多くの人が気付いていない。
これを読む諸兄は、毎年、「春の訪れ」を何で感じているだろう。
大阪に生まれた私は、春の到来と言えば、毎年「大相撲春場所」でそれを実感する。
モノ心ついた頃から、大の相撲ファンだったこともあるが、
自宅近くに相撲部屋もあり、稽古を見に行き、そして初日前日に「ふれ太鼓」を聞くとき「ああ春が来た」と空を見上げる。
そして時間さえあれば、府立体育館の立見席によく相撲を観に行ったものだ。
さて今回、この相撲というスポーツが持つ、たいへん興味深い、ある「奥義」を紹介したい。
(個人的には相撲を『スポーツ』というカテゴリーではくくりたくないのだが便宜上)
その「奥義」は、むろん他のスポーツにも通じるし、勝負を常とする「ビジネス」にも通じている。
その「奥義」とは、「相手十分にさせない」が、それである。
NHKの相撲中継をよく観る方なら、このフレーズは当然、聞き慣れた言葉だろう。
相撲の歴史は極めて古く、現存する古書にも、すでに奈良時代にその原型が紹介されている。
そしておおよそ1,200年をかけ、ありとあらゆる「こうすればこうなる」という「理」が出来上がってきたのだろう。
「年寄の言う事と牛の鞦は外れない」どころではない。
先人達が気の遠くなるような年月をかけて悟った「理」には、何一つの無駄もない。
相撲は、そんな「理に叶った奥義」でできあがったスポーツと言っていい。
相撲は、ただ押し合って、ただ投げ合っているように見えるがそうではない。
例えば、自分よりはるかに体の大きな相手でも、「ハズ押し」をすれば、不思議なことに相手を簡単に持ち運べる。
(ハズ押し:親指を立てて相手の脇下に下から手を入れて持ち上げて押すこと)
逆に、相手が「ハズ押し」をしてこなければ、軽量の自分でも、まるで足の裏が土俵に張り付いたようにビクともしない。
いったい誰が考えたのか。まさに相撲は、先人達の知恵の結晶だ。
ではその奥義の一つ、「相手十分にさせない」を詳しく解説しよう。
これは、要は「相手の力を殺ぐ」という「技」だと思って欲しい。
まず、対戦する相手の力が<100>だとしたとき、その相手に勝つにはどれくらいの力が要るだろう。
最低でも<100>の力が必要なはずだ。
だが、もし自分の力が<80>しかないとしたら、<100>の相手に勝つには、猛稽古を積まなければならない。
それでは日が暮れてしまう。もしかして永久に<100>を超える力には辿りつけないかもしれない。
それでも、多くの人が<100>以上の力をつけようと、そればかりを考えてしまうのだが、いや、そうではなく、
自分の力が<80>のまま、相手の力を<20>ほども殺ぎ、<80以下>にしてしまえば勝てるはず、と考えるのだ。
つまり、自分の力を「アップ」させるのではなく、相手の力を「ダウン」させるのである。
そして、相手の力を殺ぐために、さらにもし<10>の力が必要なら、相手の力を<70以下>にまで殺げばいい。
これが相撲の「相手十分にさせない」という考え方である。
この「奥義」をフルに活かした近年の力士を1人紹介するとすれば、元横綱「武蔵丸」がピタリである。
恐らく誰もが、あの「武蔵丸」を思い浮かべたとき、彼をそんな「業師」と見る向きは少ないかもしれない。
あの腕っぷしでグイグイと押されたら、誰だって土俵を割るだろうし、力任せの相撲で十分だと思うだろうが、実はそうではない。
「武蔵丸」は、相手の右腕の脇に自分の左腕を差し込み、その左腕で「まわし」を取ることなく、相手の右腕を跳ね上げるのだ。
これを相撲用語で「かいなを返す」という。相手の右腕は「バンザイ状態」となる。
これで勝負ありだ。相手の力はもう半減されている。
確かに「武蔵丸」も左腕が使えなくなるのだが、残った右腕こそ利き腕であり怪力だ。力は<80>ほども残っているだろう。
一方、相手は片腕が使えなくなり<100>のうち<50>ほども力を殺がれ、残り<50>程度で戦わねばならなくなった。
元々強い「武蔵丸」が、<50>の相手に<80>の力を使って相撲を取るのだから、これは負けるはずもない。
「武蔵丸」の生涯一番多かった決り手は「寄り切り」である。徹底している。「かいなを返しての寄り」。これが彼の代名詞だ。
私自身、長く「相撲ファン」をしていれば、何百人という力士を見てきたが、
この「武蔵丸」ほど、これほどまでに、相手十分をさせない相撲にこだわった力士もいなかったのでないだろうか。
大関時代の「貴乃花」もこの相撲だった。今、大人気の新横綱「稀勢の里」もこのタイプである。
ただし、横綱になってからの「貴乃花」や、圧倒的に自分の形を持っていた「千代の富士」なんかはこのタイプではない。
彼らはもはや相手の力を殺ぐどころか、相手をはるかに上回る力で圧倒をしていた力士だ。
さて、実は私は、大学時代の一時期、相撲部に籍を置いたいたことがある。
私はそこで多くの「理」を知ることになるのだが、この「相手十分にさせない」だけはどうしても好きになれなかった。地味なのだ。
私の嗜好は<右前ミツからの下手ひねり>だったのだが、監督から「アホ。100年早い!」と一蹴される。
「そんなことしたら、自分より強い相手に勝てないじゃないか!」と監督。
「はっ?どういう意味ですか?自分より強い相手に勝つために、そのために稽古してるんじゃないですか!」と私。
私は暫く、この監督の言ってる意味がサッパリ分からなかった。
結局、私の在籍中、この監督から教えてもらった相撲は、唯一つ、「相手にまわしを許さない相撲」だけだった。
稽古中、もし相手の「まわし」に手をかけようなもんならその瞬間、監督の竹刀が私の腕に振り下ろされた。
「まわしを取るな!」「相手十分にさせるな!」と、そればっかりだった。私がいくら泣きを入れても、それはムダだった。
そして、だんだんと、だんだんと分かってきたのである。
そう。勝つための相撲の極意とは、「相手十分にさせない」であり「相手の力をどう殺ぐか」だったのです。
私はその「奥義」に、少しずつ、少しずつ、心酔していったことを覚えている。
そして、卒業する頃から、この「相手十分にさせない」という戦術こそが「これぞ真髄」と思えてきたから不思議である。
そしてそれは、私が今、携わるビジネスの隅々にまで影響を及ぼすようになってきている。
そして今、それは私の「性癖」ともなり、「相手十分にさせない」こそが「耽美の極み」だという思いにまで至っている。
私はビジネスの局面で、この「性癖」を露骨に使おうとするときがある。
例えば、営業局面において、競合となるライバル企業が、超デカい企業のときだ。
つまり、こちらの力が<20>で、ライバル会社の力は<300>ぐらいなのだ。まともに勝負できる相手ではない。
そんなときは、ほぼ例外なく、私は「相手十分にさせない相撲」だけを考える。
こう考えるのだ。こちらの強みのほとんどは、ライバル会社の方がはるかに上である。
だが唯一、バカデカい企業が苦手とする分野は「小回り」だ。「フットワーク」が悪いのだ。
そこで私の書く提案書は、「ウチはフットワークだけが売りです」を、デカデカと誇大広告するのである。
本来、そこは売りにすべき部分ではないときでさえ、相手がそれが苦手なら、極端な話、それしか提案しないこともある。
100%「ギャンブル」だ。相手のイヤがるところだけを突く。絶対に相手十分にはさせない。
負けて元々。勝てば腹を抱えて笑ってやる。
私は、自分よりも圧倒的に強い相手が土俵に上がってきたとき、相手に「まわし」を触らせない相撲だけをする。
それでも、戦績は<1勝50敗>ぐらいだろう。
だが、私の楽しみは「勝ち負け」ではない。とにかく「相手十分にさせない」にのみ燃えるのだ。それだけだ。
負けた相手は、負けた理由も分からずにポカンと口を開けている。ザマぁ見ろだ。
今、我々の契約先の中に、上場企業が3社ある。それはすべてこの戦術で相手を転がしてゲットした3社である。
自分より強い相手に勝つ方法があるのだ。
それは相撲だけではない。相手得意の組み手を嫌う柔道にも、誘い戦法を採る剣道にも、そして当然「ビジネス」にもだ。
アナタも、どうぞこの「相手十分にさせない相撲」にトライしてみて欲しい。
勝ったときの「どや顔」は、何にも増して気分爽快だ。