一日先に歩き始めたカメには絶対に追いつけない
~中学校の「教育指導要領」に書かれた深奥なる学習の指針。これさえ知っていれば人生は変わるはず~
どれだけセンスがあろうと、瞬発力や集中力があろうと、養成できない能力があるそうだ。
コツコツと、日々の反復でしか養成することのできない能力があるという。
ならば、それを一日先に始めた者には、絶対に、追いつけないという理屈だ。
中学生のときである。卒業を間近に控えた教室で、3年生の担任だったI教諭と話をしていたときだ。
「谷よ。いいこと教えよう」と、脇に抱えた分厚い冊子を見せてくれた。
今、ハッキリとその冊子のタイトルは思い出せないのだが、
確か「教育指導要領」のような類の書物だったように記憶している。
むろん、生徒には見せてはいけない、教師だけの「虎の巻」だったのではないだろうか。
高校進学も決まり、3年生はもう登校の必要もなかったのだが、何となく先生と話がしたかったのだ。
私の担任のその先生は、男のくせに珍しく音楽の先生だった。
いつもヨレヨレの安モノの背広を着て、結び目の汚れたネクタイをしていた。
が、非常に熱血漢で飾らなく、いつも少年のような目をし、15歳のハナタレ小僧が訪ねて来ても、
「一緒に酒が飲めたらなぁ」と、教師然としていない、そんな先生を私は嫌いではなかった。
「谷。学問には2つあるんだ」
「生まれ持った才能がモノを言う学問がある。数学や物理だ。音楽もだ。これは才能には勝てない」
「努力は天才に勝つって言うけど、アレはウソだと思う」
「数学や物理は、ヒラメキで解ける学問の一つなんだ」
「だけどな、学問には、もう1つあるんだ」
ふーん。何だそれは。私はゴクリと唾を飲み込んだ。
「毎日、毎日、コツコツと積み重ね、反復の練習をしないと、絶対に身に付かない学問があるんだ」
先生はそう言って、生徒に見せてはいけないはずの、その「教育指導要領」のページを開き「これを見ろ」と指差した。
【日々の反復の鍛錬によってのみ養成される能力】と書いてあった。
そこには「長文読解力」「文書作成力」「外国語会話力」などという教科が書かれていた。
そして、その鍛錬の方法に「日々の僅量(少しずつ)の反復を薦めること」と謳われていた。
へー。学問には2つあるのか…。軽いショックを覚えた。
日本のすべての中学教師は、この「教育指導要領」を元に、2つの学問を区別しながら教壇に立っていたということだ。
40歳を超えていただろうこの教師と、たかが15歳のハナタレ小僧の私とは、
年齢や立場を越えて、妙にウマが合ったような記憶がある。
「谷、聞いてくれよ。あの秀才のB子がな、家が貧しくて就職をするらしい。誰か代わってやってくれんかなぁ」
などと、まるで居酒屋で、同僚にでも聞かせるような話を、私に語ったりもした。
そんな先生が、これから大人の階段を登っていく私に、かけなしの「人生訓」を垂れてくれたのである。
「いいか谷。勉強はやりたくなってからすればいい」
「だがな、ここに書かかれてあるように、毎日、毎日の積み重ねでしか身に付かない学問があるんだ」
「信じろ。それだけは、今始めろ。今」
そして、いの一番に薦めたのが「読書」だった。
正直、活字は苦手だった。ジメジメと家にこもって本を読むような性分でもなかった。
だが、苦虫をつぶしたような顔をしている私に、先生は、
私が生涯、忘れることのできない「珠玉の名言」を口走るのである。
その言葉は、60歳を手前にした今日でも、まだ私の脳裏に焼きついている。
「いいか。一日先に歩き始めたカメには、絶対に追いつけないんだ」と。
先生はそう言ってニヤリと笑った。
数秒ほど考えたが、その「珠玉の名言」はフッと腑に落ちた。
コツコツでしか身に付かない能力には、一日のアドバンテージが効く!
目覚めた瞬間だった。
「いいこと聞いちゃった」と、そう思った。
「いいか谷、このことを誰にも言うな」
「そしていつか、お前の能力を羨むヤツが出てきたら、そのときにはそっと教えてやれ」
「でも、安心していい」
「そいつはな、絶対に、お前には追いつけないんだ」
「なぜなら、お前が一日先に、それを始めているからだ」
私の人生は、多くの人に導かれている。
この先生の、この「人生訓」は、その中でも、最高の部類に入るものだと思っている。
15歳の少年は、この一言で、誰にも負けない「秘密の学び力」を手に入れたと思っている。
「一日の長」とはよく言ったモノだ。その言葉の「源泉」を見つけた瞬間だと思っている。
表現はやや粗野だが、「しめた」と思ったことを記憶している。
卒業後、春休みに、その先生をもう一度訪ねたとき、先生が「おい、これをやる」と一冊の本を手渡してくれた。
出版されたばかりの、五木寛之の「青春の門(筑豊編)」の文庫本だった。
活字が苦手だった私だが、苦労をしながらその本を読み終えた。たっぷり2ヶ月はかかったと思う。
だが、その次編は、自分の小遣いでちゃんと買い求めた。
だんだんと、だんだんと、活字がジワリと体に染みていくようになり、活字アレルギーは無くなっていった。
高校時代から大学時代にかけて読んだ本は、恐らく1,000冊は超えたかと思う。
身に付いたのは「長文読解力」なんかではない。
むしろ「トーク力」や「MC(司会進行)力」「話術」だったんじゃないだろうか。
教養とまでは言えないが、話題のソース量が圧倒的に増え、どんな会話の場も盛り上げられ、心地良くできる力が備わった気がする。
書物から得られたモノは実に多かった。「人間力」の素となる栄養が、どんどんと脳ミソに蓄えられて行く気がした。
これらは恐らく、一朝一夕で得られるモノではなかったはずだ。先生の言う通りだった。
学問には2つある。
持って生まれたセンスでカバーできる能力と、日々、愚直に繰り返すしか育たない能力と。
こればかりは、先に気付いたヤツが得をする仕組みなのだが、「そうか、オレはもう遅いのか」と落ち込む必要はない。
なぜなら、まだ気付いていないヤツらが、貴方の周りにワンサといるからだ。
貴方が今始めれば、そいつらは絶対に、貴方には追いつけない、という仕組みだ。
そして、日々の積み重ねでしか手に入らないモノは、「学問」だけではないことにも気が付いた。
若い肌の美貌も、当たり前の健康も、信頼も忍耐力も、秘伝の味も看板も、夫婦や親子の絆もその一つなのだろう。
さて最後に余談である。
この「珠玉の名言」に似た言葉を、最近、健康診断で毎年、お世話になっている主治医から聞くことになった。
「谷さん、高脂血症ですよ。コレステロールを控えましょう」
「先生、いい薬があるんでしょう?それを飲みますよ」
「谷さん、いいこと教えましょう」
「…はい?」
「生活習慣病っていうのはね、実は、日々の『生活習慣』でしか根治できないんですよ」
おお!どこかで聞いた「名言」である。
40年前に40歳だった先生は、まだ存命だろうか。
この先生は、定年までに、いったい何匹のカメを歩かせたのだろう。
今度会えたら、今度こそ、酒を飲みながら語り合いたい。