「結婚しようよ」
~昔の日本人は「心奥にある言葉」を口にしなかった。それこそが日本人だった~
僕の髪が肩まで伸びて君と同じになったら約束どおり町の教会で結婚しようよ♪
吉田拓郎の1972年の大ヒット曲「結婚しようよ」の歌い出しである。
この軽薄な歌詞が、その後の日本を変えてしまうことになる。
岩村暢子著の「日本人には二種類いる」という本には、
1960年以前に生まれた日本人と、以降に生まれた日本人は、
まったく違う人種だと論じている。同感である。
もし、その二種類の日本人を作ったエポックメーキングがあるとしたら、
それは、吉田拓郎の「結婚しようよ」ではなかっただろうか。
この曲が、旧い日本人と、新しい日本人を分けてしまったのだ。
当時、戦争が終って25年も経ち、平和なんて当り前。国は経済に専念し、
明治維新から100ヶ年、それまで、生きていくのに必死だった日本人に、
初めて「あんのんたる気分」が生まれ始めていた。
そんな1970年代、日本に、戦争経験のない大人が誕生し始めた。
これは日本の二千年の歴史の中で、初めてのことではなかろうか。
戦争の無い時代が、いったいどんな大人を作るのか、誰も知らなかったワケだ。
この頃から「昔からの大人」と「大人になったばかりの若者」との間に、
埋めようのない「断層」が見え始めてきた。
昔からの大人は、食うや食わずの戦禍をくぐり抜け、
焦土と化したこの日本を、世界に冠たる国家にせんと、
エコノミックアニマルと揶揄されながらも、死にもの狂いに働いていた。
だが、大人になったばかりの若者は、
髪を伸ばし、汚れたGパンを履き、スカイラインに乗り、平凡パンチを片手に、
女の子のハートをどう射止めるか、それが最も重要なテーマになっていた。
アプレゲール(戦後派)の勃興だ。太陽族が街に溢れていた。
「お前ら、戦争を知らんくせに!」
大人達はこう言って若者を批判した。
そんな時、ジローズが「戦争を知らない子供たち」という歌を発表する。
ボクらは確かに戦争を知らない。
でもそれは、ボクらのせいじゃない。
だから卑屈にはならない。ボクらはボクらなりにやるだけだ。と歌ったのだ。
これはある面、大人達との「折り合い」をつけた歌だったのかもしれない。
大人と、大人になったばかりの若者が、睨み合いながらも、
互いの存在を認め合おうとする歌だったような気がする。
だがその2年後、とんでもない歌がラジオから流れ始るのだ。
それが、吉田拓郎の「結婚しようよ」だった。
この歌にはイデオロギーはない。戦争を知らない開き直りもない。
社会へのレジスタンスもなく、大人達の存在さえ、無視だ。
ましてそれまで、結婚とは、家と家との儀式であったはずが、
「髪が肩まで伸びたら結婚しようよ」と歌うのだ。
拓郎は、そんな日本の大切な価値観までも嘲笑って蹴散らした。
明治・大正生まれの大人達は、声を失い、腰を抜かした。
大人達は「軟弱を歌ってる」「若者は堕落した」「日本は終わった」と嘆いた。
それまでのフォークソングには、何かしらのメッセージ性があった。
拓郎は、それさえ消し去ったのだ。
日本がどうなるのかなんてどうでもいいよ、と歌ったのだ。
そしてその翌年、今度は、井上陽水が「傘がない」を発表する。
「都会には自殺する若者が増えている」と歌い出すが、
「それよりもさっき降り出した雨だ。傘がない。その方が重大事だ」と歌った。
何ということだろう。
それまで、歯を食いしばって社会を背負ってきた大人達は、とうとう絶句した。
拓郎も、陽水も、「何か文句あんの?」と、ウソぶいたのだ。
拓郎から、日本は変わったと言っていい。
「好きなモノを好きだ」と言える時代に入った瞬間だったのだ。
このブログを読む諸兄の中には、若い方も多いだろう。
信じてもらえないかもしれないが、
この拓郎以前は「好きなモノを好きだ」とは言えない時代だった。
そして拓郎以後は、それがフツーに言える時代になっていくのである。
岩村暢子の言う、1960年生まれの日本人は、
ちょうど、この拓郎と陽水の曲を「青春期」に聴くことになる。
多感な若者が、その影響を受けないはずはなかった。
何を隠そう、実は私は、拓郎と陽水の大ファンである。
だが、この「心奥にある言葉を口にする」という文化をもたらした2つの曲は、
日本人が、数千年にもわたって守り続けた「語らずの文化」をフイにしている。
日本人が、悲しくも、アメリカンナイズされた瞬間である。
昨年、ある会社の研修に出た時に、講師(40歳前半だったろう)の一人が、
「仕事とは、生活の糧を得るためのもので…」と口走った。
瞬間、私は耳を疑った。えっ…!
だが、受講している若手社員達は「その通り」とペロリとした顔をしている。
私は「それって口にすることか!」と、天井を見つめた。
私は、ドイツの規律あるギムナジウム(寄宿制学校)が好きである。
縦社会がまだまだ残っている宝塚歌劇団に好感を持っている。
男女が口をきいてはならない日本競輪学校を応援している。
祖国を見つめよ!と教示する韓国の徴兵制がうらやましい。
集団に身を置くことによって初めて「個」は作られる。
そこでは「私」を滅し「公」に奉ずることによって初めて「個」が磨かれる。
制約の中でこそ、「個」は研鑽されていくモンだと信じている。
心の奥で思うことすべてを口にして、「個」が磨けるはずはない。
「仕事とは、自分を磨くための課題である」
私はそう信じていながらも、口にはしない。
日本人を変えた「結婚しようよ」は大きな功罪を残している。