目の前の常識は疑えない
~今の常識は10年後の常識ではないかもしれない。だが今の常識は疑えないのだ~
昔、会議と言えば、机の上には必ず「灰皿」があった。
職場では、電話をしながらタバコをスパスパ吸っていた。
今では信じ難い光景だが、当時、何の不思議もなかった気がする。
そうなのだ。過去を振り返った時、
その当時の「常識」が、今ではまったくの「非常識」にも思え、
「何でそんなことに気付かなかったのだろう…」と、
恥ずかしくなることさえある。
だが当時、その「常識」を疑うことは100%できなかったハズだ。
私は「常識」という概念は、
個性や、個々の信念的な考え方に拠るモノではなく、
「みんながそう思うから自分もそう思ってる」
という「大衆の認識」が生み出す一種の「絶対観念」だと思っている。
会議中にタバコを吸うことはあり得ないことである。
今、すべての人がそう思っているが、
昔は逆に、誰一人、そんなことを思ってはいなかった。
「みんながどう思っているか」
これが「常識」を決定付けていたハズだ。
「常識を疑え!そこにビジネスチャンスがある」とよく言うが、
日常生活の前提となっている「常識」を疑うのは、
妻を男だと思うぐらいに難しい。
例えば「戦争はいけないこと」である。
これは小学生でも知っている「現代人の常識」である。
ではその考えが「常識」と言われるぐらいに正しいのか?と言えば、
決してそんなことはないだろう。
だってアメリカ人は今でも戦争をしてる。
アメリカ人はバカではない。
ノーベル賞を300人以上も輩出している賢者の国だ。
なのにアメリカ人は「戦争しちゃいけない」ってことを、
なぜ知らないのだろうか?
日本人の、太平洋戦争への決断は正しかったのだろうか?
現代、その答えは幼児でも知っている。
「戦争はしちゃいけない」って。
だが当時、常識のある、分別のある、頭のいい大人達があんなにいて、
どうしてそれが分からなかったのだろうか?
つまり、目の前にある「常識」は《疑えないんだ》と知るべきなのだ。
「常識」の正否は、
その時代の渦中にいる人には見えない仕組みになっているのだ。
今から100年後、
2人の小学生が次のような会話をしている。
「昔さ、人間をテストの点数で序列した時代があったらしいよ」
「えっー!そりゃヒドい時代もあったんだね」
「当時の大人ってバカだね」と。
そう。今の常識なんか、100年後には簡単に覆っている。
私は日々、新しいビジネスを妄想している。
寝ても覚めても、そればっかり考えている。
だが「常識」という枠を飛び出してそれを考えることの難しさに、
日々直面し、挫折する。
いやはや「常識」とは、とてつもなく頑丈にできているのだ。
だがその「常識」を覆す方法が1つだけある。
社会が決定付けた「常識」の逆をやってみることだ。
正しいかどうかなんて分からない。
だから疑う必要はない。
とにかく逆を試みる。
そして将来、その試みの結果、成功が得られれば、
その時初めて《常識は疑われた》ってことになるのかもしれない。
10年後の大衆認識が、
10年前の試みの評価を下す。
これが「常識転覆」の唯一の方法だ。
他に方法はない。
中国4,000年の歴史の中に、
冷やしたお茶の飲む習慣などなかった。
だが、そこに果敢にサントリーが挑んだ。
中国に「ペットボトルのお茶」を持ち込んだのだ。
売れるはずがない!
中国を良く知る「常識」はそう結論付けた。
だから誰も試みもしなかった。
だが「4,000年の常識」は簡単に覆った。
ペットボトルのお茶は、中国全土の若者層に広がったのである。
恋人達がそれを片手に、歩行者天国を歩く姿に国民は憧れた。
「4,000年の常識」を打ち破ったサントリーのマーケチームの大勝利だ。
誰も試みなかった中国の「有料のお茶市場」の幕開けとなった。
だがこの成功は、
正しくは《4,000年の常識を疑った成果》ではない。
4,000年の歴史の「逆」を試みた成果であり、
後から《常識を疑った》と論じることを許されたのだ。
目の前の「常識」は疑えない仕組みになっている。
だが「常識」は覆せるのである。
やってみて欲しい。
そこにビジネスチャンスは必ずある。
これ、常識。