万機公論に決っすべし
~会社に民主主義などない。白紙からの議論もない。万機を公論に決するヒマなどない~
全員で意見を持ち寄れば「最善策」が生まれるかって?
そんなことはあり得ない。
「最善策」は、たった一人がギリギリに考え抜いてのみ生み出される。
「広く会議を興し万機公論に決すべし」とは明治元年、
天皇が発布した「五箇条の御誓文」の第一条である。
瑞々しき民主主義の夜明けである。
お上が決めたことは「是」と疑いもしなかった国民は、
明治新政府ができた途端、
「何でも物事は話し合って決めましょう」
なんて言われて、
逆にオロオロと戸惑ったに違いない。
だがようやく、
民衆の意見、民意が政治に届く世になったのだ。
「万機公論に決すべし」とは、
ナンとも素晴らしいスローガンではないか。
ここに民主主義の産声である。
だが現代に至り、何かを取り違えているフシがある。
誰でも自分の意見を言える世の中が来たことと、
大勢で話し合えば良い結論が出るというのは、
大きく違う。
これを取り違え「何でも会議で話し合おう!」と、
訳の分からぬリベラリズムをかざす輩が今、あまりに多い。
まるで「公論」こそが、
自由を指向する社会的公正だと言わんばかりだ。
これは大間違いである。
例えば、公論などせず、上手くいってる顕著な例がある。
企業がそうだ。
企業は「専横制」である。
社長はたった一人で決めたことを、誰に相談もせずに横車を押せる。
これって「独裁政治」そのものだ。
金正日、カダフィ、カストロ、ムッソリーニみたいなモンだ。
だが企業の中にいる社員達は皆不幸なのか?
と言えばNO!だ。
企業は「万機公論」などしなくとも上手く行ってる。
どうしてだろう?
まずは、広く会議を募り、
全員でディスカッションすることが、
正しき意思決定のプロセスであるという観念こそ、捨て去るべきだ。
そうではないのだ。
逆に、
「大勢で話し合っては、良い案など出ない」
が正しい。
戦後教育を受けた我々にとって、
「公論」の場を伴った「民主主義」はとても暖かく、
公正で公平であるかのように思い込んでいたのだが、
その中で染み付いたこの「勘違い」は、
なかなか捨て去れない。
戦後のニッポン人はすでに「無知の時代」を卒業し、
情報のるつぼの中にいる。
もはやある一定の「価値観のベース」は共有できており、
この世に、もはや「白紙からの話し合い」など存在しないのである。
会議は今や「公論」の場ではなくなったのだ。
国会中継を見ればよく分かる。
国会議員に無知者はいない。
すべての議員は国会に出席する前に熟考を重ねた「持論」を手にしている。
国会中に、他人の意見でその持論を覆すことはない。
国会はもはや「公論」の場ではなく、
「それぞれの持論を持ち寄る場」なのである。
さて企業。
価値観は「社会正義の元で営利を得るべし」と決まってる。
であれば、企業の会議も、国会と同様、
「万機公論に決すべし」なんてのはもうない。
たった一人が、ギリギリまで考え抜いて導き出した最善案を、
会議の参加者全員で「なるほど」と納得する場である。
今でも時々見かけるのだが、
会議に手ブラで(白紙で)臨むバカタレがまだいる。
あきれてしまう。
会議では、誰よりも先に「絵」を描いた人に勝算がある。
間違えても「公論」になど頼ることなく、
会議の前に、会議を決っする「持論」を持って臨みたい。
熟考に熟考を重ねた「頑丈な持論」を。
会社に民主主義などない。
会議に白紙からの議論もない。
万機を公論に決するヒマなど企業にはないのだ。
