姥捨て山に捨ててくれ
~今、村々は大飢饉に見舞われている。もう全員は助からない~
「姥捨て山」という民話をご存知だろうか。
息子が年老いた母を背負い、山奥に捨てに行く話だ。
この「姥捨て山」を現代に蘇らせたい。
背中に背負われた母は、道のあちこちに木切れを捨てている。
息子は「母は村に帰れるよう目印を置いているんだろう」と思っていた。
ところが母を置いて帰ろうとした時、母はこう言った。
「帰り道に目印を置いたから、それを頼りに村に帰るんだよ」と。
自分が捨てられようとしている最中、
息子の帰り道を案じる親心への親不孝を恥じ、
息子は再び母を背負い、山を降りて行くのである。
貧しかった時代、貧しかった村では、
働くことのできなくなった年寄りは、
自ら、山奥に捨てられることを受け入れ、
それを非道と思わぬばかりか、
そうやって家族を守り抜いたのであろう。
実はこの「姥捨て山」という制度は、
長い人類の歴史の中で、それほど珍しいことではない。
欧州の古い民話や、
アフリカの民族風習にさえ現存している。
つい百年前、
日本においても当たり前の儀式だったそうだが、
正常でない生まれ方をした赤ん坊は、
生後すぐに殺されたそうだ。
それが「村の昔からの教え」だったからだ。
無論、現代ではあり得ない。
「働けない人間」は、
村にいては「お荷物」となるのだろう。
働けない人間の一生を、家族や村が見るならば、
村そのものが共倒れしてしまうのだ。
ケガや病気で働けなくなった人間も、
村からソッと葬られていくのが因習だった。
大飢饉では、働けない人間から順に間引いていった。
いわゆる「口減らし」である。
まず病人から。そして年寄り、子供という順に。
それが「生き残る術」だったのだ。
だが今、人類の有史において、
人の命の尊厳を、過保護にまでしてしまった感がある。
「簡単には殺せない時代」に突入している。
すべての人を救う。
心ならずもそう言わなければならない時代なのだ。
ここ数年の不況で社会問題となった「派遣切り」。
ここにもその縮図を見ることができる。
派遣村ができ、救済を訴える「人徳者」が現れ、
まるで、派遣切りをした企業こそが悪だと言わんばかりだ。
だが、本当にそうなのだろうか?
派遣される者は、契約を切られた瞬間、
食うや食わずの状態になることは分かっていたはずだ。
それなのに、貯金もせず、安定雇用の先も探さず、
ただ漫然と日々を過ごしておれば、
契約解除の翌日から、
途方に暮れてしまうのは、当然のことではないのか。
こんな話も報道された。
派遣切り救済のため、
ある農業事業の経営者が、
30名もの派遣村住人を引き取ったという美談があった。
寮を用意し、衣食住を提供したのだ。
だが数日もすると、
その30名は一人残らず会社を辞めていったそうだ。
理由を聞いて唖然とする。
「水が冷たい」「朝が早い」「自分には向いてない」
こんな稚拙な理由で辞めていったのである。
これが「弱者救済」である訳がない。
「社会福祉」さえ唱えれば、
票が集まると考える浅知恵の政治家も、
そろそろ路線を変えるべきだろう。
所詮、民主主義では、全員を救えないのだ。
「誰を殺すのか?」
そろそろそれを発表する時だ。
世の中には「働きたくても働けない人」がいる。
学校を卒業したが、就職先がなく、立ち往生している新卒者だ。
出産後、子育てで社会復帰の機会を失った女性達もその対象だ。
「姥捨て山」に捨てられた老婆もその一人だ。
救おうではないか。
だが一方「働けるのに働かない人」がいる。
派遣村から農業に従事し、辞めた30人がそうだろう。
恣意的に社会適応を拒むフリーターやニートもそうだろう。
そんな輩は、
どうか自ら「姥捨て山」に行ってくれ。
働かない人はもう助からないのだ。