狩猟民族から農耕民族へ
~幸せを求め、我々はそれまでの狩猟をやめ、農耕民族への旅に出ることを決意した~
我々は独立する時、親会社から小さな「苗」をもらってきた。
狩猟民族から農耕民族への扉のカギだ。
この小さな苗を、たわわに実る稲田に育てたい。
園山俊二の「はじめ人間ギャートルズ」というマンガをご存知だろうか。
古代の原始人たちが繰り広げる、ほんわかとしたギャグ漫画の傑作だ。
男どもは、寄ってたかってマンモスを追いかけ、
女どもは、子供達とマンモスの収穫を待ちわびる。
そんなおおらかな家族とその集落に住む人々の日常を描いている。
多くの企業は、こんなマンモス狩猟を生業にしている。
一頭のマンモスが獲れれば、村じゅうが賑わい、酒を飲み、踊り、祭りが始まる。
村人はマンモスを切り分け貯蔵し、
「これで冬を越せる」と安堵する。
しかし村の長は宴の最中、
「やれやれ、今日は飲もう。がしかし、この肉を食い終わったら…」と、
心安らかになることはない。
次のマンモスが獲れる保証はどこにもない。
翌日からまた眠れない夜が続くのだ。
貧乏性だと笑われようが、心配性だと笑われようが、
村の長には、永遠の安堵など訪れる日はないのだ。
日本で農耕が行われるようになったのは、弥生時代後半と言われている。
それまで野性の植物を採取し、野性動物の狩をしていた。
植物を取り尽くしてしまえば集落は移動し、
野性動物が集まる場所を探し彷徨う数万年が続いていた。
我々はそんな「狩猟民族」だった。
「大陸から伝わった『稲』を育ててみようと思う」
ある日、村の長は全員を集めてこう切り出した。
「男どもの半分は狩りに出て、残り半分はこの『稲』を植えてみる」
「長、待ってくれ。半分の人数じゃマンモスは獲れない」
「分かってる。だが、いつかやらねば我々は幸せにはなれないんだ」
「いいや、そんな『稲』にかかってれば、それこそ死ぬ」
村人たちの葛藤は続く。
マンモス狩りには、大きな村が参加する。
マンモスを谷に追い込む「大企業」の村。
マンモスに矢を射る「中企業」の村。
倒したマンモスを解体する「小企業」の村。
我々の小さな村は、下請けとしてマンモス肉のおこぼれに預かる。
だが所詮はおこぼれだ。
大きな村とケンカでもすればマンモスの肉は回ってこない。
「このマンモスは思ったより小さい。お前んとこは脂だけだ」
そんな理不尽を言われても従うしかない。
小企業はいつまで経っても宴の外にいる。
多くのベンチャーは最初、稲作を目指すのだろう。
だがいつの間にか、
マンモス猟に駆り出されている。
それしか村人を食わすことができないからだ。
ビジネスの現実はそんなに甘くないのだ。
村の長は悩む。
この小さな「苗」は、本当に自分達に幸せをもたらすのだろうか…。
だが、やってみるしかない。
試行錯誤が始まる。
日照りが続けば稲はすぐに枯れた。
雨が続けば稲はすぐに腐った。
虫にやられて一瞬で稲穂は食い散らされた。
実りがあっても、村じゅうの胃袋を満たすにはほど遠い。
村の長は疑い始めた。
「本当に『稲』なんて育つのか。我々に『稲作』などできるのか…」
だが信じるしかない。
誰かがクシャミしたら風邪を引くような、
そんな悔しい思いはもうたくさんだ。
「e-コンシェルジュ」
我々はこの商品をもって会社を興した。
親会社を離れる時、
この「e-コンシェルジュの苗」を持って船出させてもらったのだ。
少額だが、毎月ずっと継続するこのサービスは、稲作のようだ。
売ったら終わり。次を売ってくる。という狩猟ではない。
そして、
直接、お客様と契約し、直接、お客様にサービスを提供する。
お叱りを受けても、解約をされても、
それは我々自身の至らぬところから始まる。
大きな村も、中くらいの村もここにはいない。
我々はこれを「稲作」と呼んでいる。
長引きそうな今の不況。
だが、我々は稲作を信じ、あきらめない。
まだまだ自分達で取る米だけでは足りないが、
愚直なまでに「農耕民族」を目指すしかないと信じている。
目の前を、どれほど大きなマンモスが横切ろうと、だ。
種まきの春。そして実りの秋。
雨の日も、晴れの日も、みんなで稲田を守る。
家庭を作り、子を育て、米を分け合う。
村々のあぜ道を走る子供達の、はしゃいだ声が聞こえる。
今日は村の鎮守のお祭りだ。
幸せそうな村人達の顔がそこにある。